ダーク ピアニスト
〜練習曲5 幻想の螺旋〜

Part 3 / 3


数日後、遂にルビーはカールと電話で対話する事になった。
「ヘル クリンゲル。先日のコンサートでは失礼しました。僕、ルビー・ラズレインです」
――「私の事は、カールと呼んでください。光栄です。君から連絡をもらえるなんて……。私はずっと君を捜していました。君は、あのルートビッヒ・リュウ・シュレイダー君なのでしょう?」
彼は、初めから核心を突いた質問をして来た。

「僕は……ルビー・ラズレインです。でも、父様の名前はフリードリッヒだったかもしれません。父様はピアニストでした。そして、僕もそうなるつもりでした。でも、そうならなかった……」
ルビーは慎重に言葉を選びながら話した。
――「ならなかった? あれ程の腕を持ちながら……? 何故、君は表舞台に出て来ないのです? もし、援助が必要なら……」
そう言いかけるカールにルビーは慌てて言った。
「いいえ。僕は出られないんです。何故なら、僕は、闇のピアニストだから……」

――「闇のピアニスト……?」
「ええ。でも、それ以上は言えません。迷惑を掛けたくないんです。それより、あなたは、僕の母様の事を知りませんか? 死んでないかもしれないって僕は聞いたんですけど……」
ルビーは焦っていた。屋敷の電話はすべて盗聴されている。だから、彼は、わざわざ表の公衆電話で掛けたのだが、外に行ってはいけないというジェラードの命令に背いた事になる。もし、彼が自分の事を知っているなら、1番知りたい事を早く聞きたかった。

――「では、君が シュレイダー君だと仮定してお話しますが、残念ながら、彼女は既に亡くなっています。遺体は日本の遺族に引き取られていったそうですが……。私が知っているのはそれだけです。昔の新聞記事で読んだだけなので……」
「日本の何処にですか?」
ルビーは受話器を強く握り締めて訊いた。
――「それは、私にもわかりません。日本に興味がお有りですか?」
「はい。母様が生まれた国ですから……。それに、僕にも半分は日本の血が流れている訳ですし……」
――「実は今度、日本のピアニストがこちらに来る事になっているのですが、君の事をお話したら、とても興味を持たれて、ぜひ一度会ってみたいと言って来ているのです。彼は黒木と言って、とても優秀なピアニスト兼教育者です。どうです? 彼と会ってみませんか? 日本人なら、もっと何か別の情報を持っているかもしれません」

「そうですね……。その人は、いつこちらに来るのですか?」
――「2週間後です」
「わかりました。では、その頃、もう一度ご連絡します」
――「いいでしょう。でも、出来れば、君の直接の連絡先を教えてくれませんか?」
「それは……」
ルビーは逡巡した。すると、彼の方から言って来た。
――「君のデビューコンサート楽しみにしていたんです。今でもあのチケット、大切に持っているんですよ」
「カール……」
――「君は、あの頃とちっとも変わっていませんね。だから、すぐに記憶が繋がったんです。もし、君が望むなら、あの時出来なかったデビューコンサートを、今やりませんか?私に出来る事であればどんな事でもお手伝いしますよ」
「それは……」

ルビーにとっては夢のような話だった。しかし、そんな事が許される筈がない。
(ジェラードが許す筈がない……。僕はもう組織の人間になったのだから……!)
ルビーは汗ばんだ手で受話器を握り直した。
――「君に闇は似合わない。光の中にあってこそ、君は天使になれるんです。それとも、もう舞台で弾くのはいやですか?」
「いいえ! 僕だってほんとは弾きたいんです。舞台の上で……あのきらきらした夢の中で……」
――「だったら!」
「でも、出来ないんです! 今の僕には、それが出来ない……!」

――「……『グルド』ですか?」
「どうしてそれを……?」
思ってもみない言葉だった。ルビーは驚きを隠せずにカールの次の言葉を聞き逃すまいと受話器を耳に押し付けた。
――「調べたんです。まだ、この事は確信がなかったので誰にも言ってはいないのですが……」
と、ここで数秒の沈黙が続いた。

「カール……?」
擦れた声でルビーが言った。それで、すべてを悟ったようにカールが応じる。
――「やはり、そうだったんですね……。でも、大丈夫。君は何も心配しないで。すぐに警察に連絡して、君を助けてあげますからね」
「警察? ダメだよ! そんな事したら……! 僕がどんなに悪い子かってバレてしまう! そうなったら、ピアノは……僕は、もうおしまいだ……!」
興奮して叫ぶルビーを宥めるようにカールはやさしく言った。
――「大丈夫。心配しないで。言ったでしょう? この事はまだ、他の誰にも言ってないって……。それに、君はこれからだってちゃんとピアノを弾ける。その為に必要なんです。何も怖がる事はありません。君は変われる。今ならまだ、変わる事が出来るんです。警察は君の味方です」

「それじゃ、『グルド』は……?」
ほとんど泣き声でルビーが訊いた。カールは彼を怯えさせないようにと穏やかに続ける。
――「『グルド』は……」
しかし、そこでいきなり会話が途切れた。
「カール……? カール、どうしたの? 『グルド』がどうしたって……? ねえ、『グルド』は……」
次の瞬間、激しく鳴り続けるクラクションの音と急ブレーキの軋み音が響いたかと思うと悲鳴と衝撃音がそれに重なった。何かが壊れ、潰れたようないやな音が受話器いっぱいに轟く。思わず手放したその向こうからは、まだガラスが砕けたような音や金属の音等が漏れ続け、遠くで叫ぶ人の声等もそれに混じった。

「カール……? カール! どうしたの? カール!」
慌てて受話器を耳に当ててみるが、微かにプスプスという音が何回かしただけで電話は不通になってしまった。そして、もう二度とその電話が繋がる事はなかった……。
「あー……!」
ルビーは受話器を持ったまま声を上げて泣き出した。
(どうして……!)
頭の中で走り去って行く黒い馬車が見えた。幻想の霞の中にそれは紛れ、思い出そうとすると酷く頭が痛んだ。それは、まるで別れを告げているようで、彼の中に冷たい悲しみだけが残った。


「カール・クリンゲルが死亡したって……」
翌日。ソファーにもたれてぼんやりと窓の外を見ていたルビーにそれを告げたのはエスタレーゼだった。彼女は新聞を広げてテーブルに置いた。
「知ってるよ……」
ルビーは首ももたげずにそう言った。
「きっと僕のせいだね……僕なんかと関わったから殺されたんだ……!」
そう言うとルビーは両手で顔を覆った。
「違うわ。事故よ。車の事故だって新聞に書いてあったわ」
「違うよ!」
ルビーは首を激しく横に振った。

「僕と話していたんだ。そしたら、突然……ガシャーンって大きな音がして、クラクションが……ガラスの割れる音や人の声も聞こえた。それからすぐに通話は切れてそれっきりさ!」
彼は叫んだ。
「どうしてなの? 僕がやろうとする事はいつもこうさ! 誰かが僕の犠牲になってしまう! イワンもカールも、それに、母様も……みんな!」
ルビーはそこにあったクッションをズタズタに引き裂いた。
「畜生! 畜生! 畜生!」
持って行き場のない怒りが彼の中で渦巻いた。彼はぼろぼろになってしまったクッションに顔を押し付けて泣いた。と、そこへジェラードが入って来た。
「ルビー、仕事だ。すぐに来い」
しかし、彼は顔を背けたまま返事をしない。
「ルビー? 返事はどうした? お仕事だと言ったんだよ」
やさしさの中に有無を言わさぬ威圧感を込めてジェラードが言う。

「いやだと言ったら?」
「何だって?」
「僕はもう人殺しの仕事なんかしない! いやだ! うんざりだ! 僕はピアノだけを弾きたいんだ! もう他の事で神経を使いたくない!」
そう言ってクッションを投げつける。ジェラードはそんなルビーの襟首を掴んで平手で顔を叩く。
「一体誰に口を利いているんだ? え?」
「ウウッ!」
きつく首を締め上げられ、彼は声を出せずにもがいた。
「く、苦しいよ。やめて……!」
しかし、そんな彼にジェラードは容赦なく鉄拳を加える。
「やめて! お父様! ルビーは今、情緒不安定で……。だから……」
そう言って止める娘を振り返ってジェラードは言った。

「これはけじめだ。わかるね? ルビーが何故ここにいるのか。仕事に個人の感傷など持ち込んで欲しくない」
「でも、ルビーは……」
何か言おうとする娘を押し戻して彼は言った。
「黙りなさい。おまえには関係のない事だ」
しかし娘は言い募った。
「関係ない? 違うわ! だって、今回の事はわたしが原因なんだもの。わたしがルビーをコンサートに連れて行ったりしたから……!」
「黙りなさいと言ってるんだ!」
ジェラードが強い口調で娘を制した。片手はまだルビーの襟首を掴んでいたが、もう片方の手を娘に向かって振り上げた。ルビーは薄く目を開けてそんな彼を見た。男は怒りの表情で顔を赤らめ、振り上げた手の先が照明に反射して光って見えた。間に入ったエスタレーゼの顔が母の顔と重なる。

「やめろ!」
ルビーが叫んだ。
(殺させない! もう二度と、母様は殺させない。僕が母様を守るんだ。僕が……!)
ルビーの周囲に纏わった風が渦巻き、重いジェラードの体を弾き飛ばした。そして、獣のように飛び掛かる。すると、爪の先に集まった光が、鋭い刃のようにコーティングされていく。自分はもう、泣いているだけの子どもではない。大人になったのだ。そして、力を手に入れた。
(今なら……一撃で裂ける!)
彼は凶器の爪を男の喉に突き立てようと肘を引いた。その時。

「やめて! ルビー。お父様に乱暴しないで!」
その声にはっとして振り向く彼の瞳には、まだ狂気の光の残像が宿っていた。
「お願い……。酷い事しないで……。わたしのたった一人のお父様なのよ……!」
その言葉が、ルビーの心に突き刺さる。

「たった一人の……?」
「そうよ! わたしにとっては大切な、大好きなお父様なの」
「エレーゼ……」
だらりと下げた指の先から静かに光が消えて行った。荒い呼吸の音だけが続く。やがて、怒りの衝動が収まると猛烈な眩暈に襲われた。自分が一体何処にいるのか? 立っているのか座っているのかさえもわからずに呆然と彼女を見つめた。よく見れば、それは母の顔ではない。
「僕は……僕……」
ルビーはぎくしゃくと立ち上がり、何歩か後退した。が、すぐにその場にへたり込んだ。その間にエスタレーゼは倒れていた父親を助け起こした。
「お父様! お父様、大丈夫ですか? おケガは?」
「ああ。大丈夫だ」
そう言うとジェラードはゆっくりと頭を振りながら立ち上がった。

そして、ルビーに近づいて言った。
「おまえは、もっと物わかりの良い子だと思っていたんだがね。ガッカリだよ」
男は上着に付いた埃を軽く手で払うとポケットから葉巻を一本取り出して口に持って行った。そして、ライターで火を着ける。長く吐き出した煙が彼らの間にたゆたった。ルビーはそんなジェラードの仕草をじっと見ていた。見上げた表情は硬く、見開いたままの瞳の奥には半ば諦めとも取れる感情が去来していた。二度目に吐いた煙は、そんな彼の表情を完全に覆い、その心を霧の向こうへと追いやった。

「ルビー」
ジェラードは、葉巻をテーブルの上の灰皿に投げ捨てると言った。
「おまえは、かつて自分の父親を殺したそうだね?」
「……あ……あー……」
頭の中に何かが通り過ぎた。フラッシュのように鮮明で残酷な記憶が次々と閃いて彼を嘲笑った。そして、それらはいつか理解不能な声となって彼の頭上へ降り注いだ。ルビーは頭を抱え、目を固く瞑った。
どこかでピアノは鳴っている。狂ったピアノが……。
すべての音がずれて、壊れた鍵盤の嵐の中で彼は流されまいと必死に何かにしがみついた。それは、ジェラードの足だった。見上げると、男は冷めたブルーの瞳を向け、低い声で訊いた。

「その時もこんな風に殺したのかい? 普通の人間にはないその力を使って……」
「あ……? あ……う……!」
ルビーは喘いでいたが、ジェラードは構わず続けた。
「そして、私も殺すのかい? 育ての親であるこの私を……」
「う…う……ちが……」
(違うよ。そうじゃない! あなたを殺そうとした訳じゃないんだ。僕はただ、母様を守りたかっただけ……。母様を……!)
声にならない心の叫び……。しかし、それはジェラードには伝わらなかった。
「そんなに私が憎いか? それが、おまえの本性なのか?」
「違う……」
ルビーは搾り出すようにそれだけ言うと首を激しく横に振った。
「なら、一体どういうつもりだ? 娘が止めていなければ、本当に私を殺していた。そうじゃないのか?」

「僕は……ほんとに……」
涙で何もかもが霞んで見えた。熱く煮えたぎった感情と凍ったままの過去の間で、身動き出来ずに嘔吐しかける。言葉がまるで見つからない。心の中が崩れたパズルのように混乱していた。
「だって、母様が血だらけで……。バラの花も散って……。カールまで死んだ。僕のせいで、みんな傷付いて……僕はやっぱり何も出来なくて……僕は……!」
それがいつも自分を傷付けていやだったのだと彼は言えずに、心の中の霧だけが深さを増した。そうやって厚く何重にも閉ざされたヴェールは、彼の中の小さな叫びさえ、光から遮ってしまった。
――待って! 行かないで!
叫んでも喚いても届かない白い闇の向こうへ、その馬車は走り去って行ってしまった。

――お願いだから……僕を独りぼっちにしないで……!

だが、その馬車の陰影は消えて、やさしい手の温もりさえ、もう彼には思い出す事が出来なかった。

――ここは何処? どうしてここはこんなに寒いの? どうして僕は震えてるの? 君は何処なの? どうして僕はいつも独りで……!

降り注ぐ花びらは冷たく、彼の心の中に積もって行った……。夢の中の彼女は、もう彼を
抱き締めてはくれなかった。桜の花のトンネルは、すっかり色を失って、あのあたたかくてやさしい風は、もう彼の中には吹いて来なかった。

――ルビー……

あの人の声だった。
子供の頃に見たあの桜の人……。母に似たやわらかな手……。
しかし、いくら探しても、やさしいその人の姿は何処にもなかった。そこには白い闇があるばかりで、彼は自分自身の居場所さえ見失っていた。背中の羽はぐっしょり濡れて、もう飛ぶ事も出来ない。濃い霧のせいで体がどんどん重く沈んで行った。
何も見えず、何も聞こえずに彼は遥か天上を見上げた。しかし、そこには何もなかった。空虚で重く白い闇が垂れ込めているだけ……。

「どうして……?」
彼は床に座り込んで泣き出した。

――ルイ。早くお父様にお謝りなさい

そんな母の声が聞こえた。
(何故? 僕は何も悪い事してないのに……)

――謝りなさい

見れば、ジェラードとエスタレーゼはもう親子らしく互いに労わりの言葉を掛け合っている。
「ごめんなさい。お父様。さっきは言い過ぎてしまったわ。でも、一時は本当にどうなるかととても心配しちゃった。お父様が無事で本当によかったわ」
「エスタレーゼ。いいんだよ。気にしなくて……。私の方こそ、少し強く言い過ぎてしまったかもしれないね」
二人の幸せそうな微笑を見ていると、ルビーはまた悲しくなった。

(あの時、僕が謝っていたらよかったの? そうしたら、父様もあんな風に笑って許してくれた? そして、母様も死なずに済んで、僕も冷たい地下室になんかやられずに、ずっとあのあたたかい光の中で笑っていられたの? あの時、僕が選択を間違えたりしなければ……?)
ルビーは泣きながら言葉を探した。グチャグチャに積もったアルファベートの中から、彼はようやくその言葉を見つけた。
「……ごめんな…さい……」
不安定で拙い音が彼の唇から漏れた。
「ご…めんなさ…い……」
ジェラードが振り向く。その顔をじっと見つめてルビーは言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい……! 僕、僕が悪い子でした。だから、許してください。もう、二度としません。だから、お願い……!」
そんな彼の悲痛な言葉にジェラードは頷く。そして、ゆっくりと彼に近づいて言った。

「わかったならいい。だが、しばらくの間、おまえは謹慎だ。いいね?」
「はい……」
「そして、もう二度とバカな事を考えるんじゃない。わかったな?」
「はい。ちゃんといい子にします。だから……」
(お願い。僕を嫌いにならないで……!)
部屋を出て行こうとするジェラードを悲し気な瞳で見つめている彼に、エスタレーゼが言った。
「ごめんね。ルビー……」
が、彼は微かに首を横に振って言った。
「君のせいじゃない……」
「でも……」
「僕が悪いんだ……みんな、僕が……」

――生まれて来なければ……

誰かの言葉が頭に響いた。
(……そうだね。僕なんか、本当に生まれて来なければよかったのかもしれない……)
彼は顔を伏せて泣いた。
「ルビー……」
エスタレーゼは、どうしていいかわからないまま、そこに佇んでいた。テーブルの上にはまだ、カールの死亡記事が載った新聞が開かれている。

「僕の事嫌いになった?」
突然ルビーが訊いた。
「何故?」
「だって、僕ときたらあんな……!」
恐ろしい怪物になって……という言葉が喉につかえる。しかし、彼女は戸惑いがちに言った。
「お父様に逆らった事? 確かに、人を突き飛ばしたり、殴りつけたりするのはよくないことね」
彼女は小さな子供を諭すように言った。
(突き飛ばしたり、殴りつけたりするのはよくない……?)
ルビーは、不思議そうな顔で彼女を見た。
(ちがうよ。僕は力を使ったんだ。風の力で吹き飛ばし、床に叩きつけたんだ。そして、この爪で引き裂こうとしたんだよ)
「爪で……」
俯いて自分の手を見つめる。が、そこにはもう悪魔の爪の痕跡はない。

「爪? それがどうしたの?」
「光っていたでしょう? さっき……」
しかし、エスタレーゼには、その意味が理解出来ないようだった。
「光ってたって? マニキュアでもつけたの?」
「え?」
彼女には、ルビーが発した風のオーラが見えていないようだった。それでも、彼女はルビーを理解してくれる数少ない人間の一人だった。

「僕ね、また、あの力を使ったんだ……」
(いけないとわかっていたのに……)
「そう……。でも、大丈夫よ。実際、お父様の身には何もなかったんですもの」
「でも……」
(殺そうとしたんだよ)
「そんなに気にする事ないんじゃない?」
「でも……」
(不安なんだ。いつか、本当に大切な人まで、この手で引き裂いてしまいそうで……)

ルビーは照明の光に反射するその爪をじっと見つめた。
「怖いんだ……!」
(自分が……)
そう言うとルビーは再びクッションを抱いてソファーの背もたれにもたれて泣いた。

――泣かないで

そう言って誰かがそっと彼の背を撫でた。

――泣かないで……ルビー……わたし、ずっと待っているから……

ルビーははっとして振り向くが、そこにはただ困ったような顔をして佇んでいるエスタレーゼの姿があるきりだった。
(誰……?)
心の中で呼び掛けても、もうその声は聞こえず、ただ、少しだけ開いた窓の隙間から風が忍び込んで来るだけだ。

「カール……」
ピアノが響いた。あの時、一度だけ光の中で弾いた『エオリアンハープ』の記憶の風が……。彼がその幻想へと堕ちて行きかけた時……突然、誰かが部屋に入って来た。その規則正しい靴音でわかる。それは、長身で銀髪の男。ギルフォート・グレイスだ。
「しばらく留守にする。おれがいない間、いつもの訓練を続けていろ」
「……はい」
ルビーは顔を背けたまま返事した。ギルフォートはふんと低く鼻を鳴らすと、部屋を出て行こうとドアに向かう。と、突然、ルビーが男を追い掛けて言った。
「あなたが殺ったの?」
ギルフォートはテーブルの上の新聞に一瞬だけ目を向けたが、素っ気無く返した。
「いや……」
「そう……なら、いいんだ」


それから、ルビーは、ずっと従順で大人しくなった。仕事も体力づくりの訓練もいやがらず、あまり外にも行かなくなってしまった。そして、彼の中で何かが変わろうとしていた……。ピアノを弾いている時も何処か遠くを見つめ、心はいつも幻想を彷徨い、あまり笑わなくなった。やがて、春が来て、花で溢れる季節になっても、元気がなかった。
そんな彼を花の祭典に連れ出そうとエスタレーゼが誘った。

その日、ギルフォートやジェラードも同行し、花を見て回った。美しい桜並木……。それは日本から移植された物だという。しかし、その花を見ても、ルビーは以前のようにはしゃいだりしなかった。
「ルビー? どうしたの? こんなにきれいなのに……」
エスタレーゼが心配して覗く。
「そうだね……」
ルビーはそう言って上を見上げた。風に吹かれて散る花びらの中、ルビーはもう思い出せなくなってしまったいつかの夢の人の名前を空に描いた。手のひらに落ちた花びらの影が光に透けて赤く映った。なのに、摘んでみるとその花びらはただ雪のように白いだけだ。

「どうして……? 夢で見た時はもっと別の色だったような気がするのに……」
そう言い掛けて彼はゾッとした。
(血に染まって、もっと赤い色をしていたのではないか?)
と、頭の中で連想してしまった自分が恐ろしかった。
「わからない……」
彼は呟く。
(本当は何色をしていたのか、もう、僕にはわからなくなってしまった……本当に正しい事が何なのか?)
知らず、その頬に涙が伝う。しかし、彼はそれを拭う事もせず、いつまでも桜の中に佇んでいた。
「ルビー……可哀想に……」
エスタレーゼが呟いた。
「可哀想なのは奴だけじゃないさ……」
背後で呟く低い声があった。ギルフォートだ。
「そうね……ルビーは、あまりに人を信じ過ぎて……あなたは、あまりに人を信じなさ過ぎて可哀想……」
が、ギルフォートは黙って降りしきる花びらを見つめていた。
「そして、わたしは、お父様が……」

そこへ、賑やかな音楽隊のパレードが通り過ぎて行った。
「待って……!」
ルビーがそれを追った。が、それはあっと言う間に人々の間を通り過ぎ、角を曲がって行ってしまった。しかし、ルビーはただ真っ直ぐにその道を駆けて行く……。その足元を風がヒュンと駆け抜けた。それは白い花びらを巻いて、螺旋を描き、空虚に散った。

――ルビー……

やさしい声が彼の心に囁いた。
「誰……?」
振り向いても、そこにはただ、乱雑に行き交う人々と白い螺旋が渦巻いているだけだ。

――待っているから……わたし、ずっとあなたを待って……

「待って……いる……?」

――君のデビューコンサート、とても楽しみにしていたんです……

「カール……」
彼の肩にひらりと落ちて止まった花びらは、薄く色づいた淡い心の形をしていた……。

Fin.